帰れない観光客
ソノコとフランスの縁は偶然始まった。
今から15年ほど前にネットで知り合ったシマくんが住んでいたから。
外国人のメル友を作って英語の上達をはかろうと、海外に相手を募ったところ、
外国人たちに混じって海外在住の日本人が一人ひっかかってきたのだ。

シマくんは自称フリージャーナリストで、海外在住歴10数年とのこと。
「暑い暑い。日本のアイスコーヒーが懐かしい。パリのシマより」
というのが第一声だったから、「パリ」を「バリ」と読み間違えて、
それから半年あまり、インドネシアのバリ島在住者だと勘違いしたままメール交換をしていた。

シマくんは、単に日本のナマ情報を知りたいという動機でメル友を探していただけで、
つまり他の普通の男子のようにソノコの容姿や境遇なんかには何の興味もない。
その「出会い系サイト」らしからぬ態度がソノコには興味深く、
シマくんの住むフランスにのめりこむことになった。

当初からシマくんが語るのは、政治や社会のことばかりで、
自分の個人的な状況や思いには全く触れない。
シマくんに言わせると、ソノコが話すのは「自分の個人的なことばかり」で、
「究極のナルシスト」とのこと。
元気満開で何度もパリにやって来るソノコに
「あなたのウルトラポジティブさには疲れるんだよ」と眉をひそめてみせる。

シマくんの住んでいるのはパリのど真ん中の、いかにもパリらしいアパルトマン。
敷地内は教会の鐘の音が唯一の騒音というくらい街の喧騒から遮断されていて、
とっても素敵なたたずまいなんである。
しかしながらワンルームの部屋の半分以上は、書類や衣類、その他もろもろが
10数年かけて2メートル以上に積みあげられていて、
唯一動きがとれるスペースはベッドの上だけというありさまだ。
「このゴミ全部ごっそり捨てちゃったらスッキリするのに」
「捨てられないんだよ。大切なものが埋まってるから」
「大切なものって、何?」
「…分からない」

シマくんはいつも不機嫌で、パリの生活がちっとも楽しそうにない。
「そもそもなんでフランスに住むことにしたの?」
「映画を観ているうちになんとなく…」
映画を観ているうちに…というのは文学的な比喩ではなくて、
本当にフランスの映画館に入り浸っているうちに居ついてしまったということらしい。
でも、こんなに長く住んでいても、自分はずっと「観光客」だと言う。
光を観る人…、なんだそうである。
「日本に戻る気はないの?」の問いには答えない。

“日本人にとってのパリ体験は、臨死体験に似ている。
 向こうに行ってしまった人は記録を残さず、帰還した人の証言は信憑性に欠ける”
パリを舞台にした小説のあとがきにそんな言葉を見つけた。
「こんな感じ…?」と尋ねると、シマくんは初めて眼を輝かせた。
でも、何も語らない。


「偶然」1981年 ポーランド 監督:クシシュトフ・キェシロフスキ
「巴里からの遺言」(文春文庫) 著者:藤田宜永  解説:鹿島茂




●最終話:妄想は賢い女の娯楽道
●第二十七話:秘められた人生計画
●第二十六話:若いだけで素晴らしい
●第二十五話:堕ちてくオトコを助けない
●第二十四話:未来は思い出よりも美しい
●第二十三話:終着点を越えて
●第二十二話:品行方正の言い訳
●第二十一話:そういう人になりたい
●第二十話:本当のお姫さま
●第十九話:昔あったかもしれない楽園
●第十八話:愛を仕分ける年末
●第十七話:ステキな小学生を探せ!
●第十六話:初恋はエクスプレス
●第十五話:帰れない観光客
●第十四話:熟女も踊る
●第十三話:あと出しジャンケン
●第十二話:家電ヒストリー
●第十一話:ご長寿アニマルのたくらみ
●第十話:食べるならとことん
●第九話:異邦人は直訳で会話する
●第八話:こだわらない性格
●第七話:白黒つけたい!
●第六話:他力本願はソレだけ
●第五話:冬眠する蝶
●第四話:イタい女
●第三話:サバイバルのことではなく
●第二話:チョイ役の冒険者
●第一話:レモン・ロマン・やせガマン


Storyteller : 高倉アリス

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