
アツシからメールの着信があった。
「あなたのネタ、また使っていい?」
アツシはクルミが3年前に捨てたオトコ。
大学時代の仲間たちと作った劇団で、何年も芝居を続けている。
劇作家と演出家と俳優を兼ねる、中途半端なアーティストって感じだったが、
最近そこそこ売れてきたのか、テレビの深夜番組のバラエティや、
ラジオのトーク番組の構成台本なんかもちょこちょこ書いているようだ。
まだネタに困るほど書いてもいないだろうに、
近頃ひんぱんにクルミの「ネタ」を使う許可を求めてくる。
「どーぞお構いなく。だいたい私の言動に著作権とかあるわけ?」
「ま、一応、礼儀として、さ。」
「どのネタ?」
「風呂の話。」
アツシの記憶の中のクルミってどんななんだろう、と思う。
二人の間にあったことは、お互い同じ情景として記憶されているのだろうか?
一方しか覚えていない記憶ならば、妄想か幻と同じ、無かったことに等しい。
大学を出てからも、風呂の無いおんぼろアパートに住み続けていたアツシは、
まあまあの、もちろん風呂付のマンションに暮らすクルミの部屋へたびたび入浴目当てにやって来た。
二人で浴槽に浸かると、酔ったアツシの体臭が密室に充満して酒風呂みたいになった。
亜熱帯のジャングルに居るような、息苦しくて濃密な空間だった。
「いつまでこういう生活を続けるの?」
「こういうって?」
「社会人にならないでいるような生活」
「さあ、ずっとかな。」
「ええっ? アーティストはやめないまでも、
自分の才能でガッポガッポ儲かって
笑いが止まらないような生活、あこがれないの?」
「そういうのは…、まあどっちでもいいかなあ〜」
「人生にこだわりとかはないの?これだけは譲れない!みたいな。」
「ん?無い。」
「無い、かぁ…。」
ゆでだこみたいにお湯の中でふやけて、「極楽ゴクラク…」とアツシはつぶやく。
そういうアツシの鷹揚なところがクルミには好もしかったのだが、
「君じゃないとダメなんだ!」のこだわりだけは期待してた。
相手は手ごわく、結局クルミの根負けだった。
「お前、いつも風呂場にチクワ持ち込んで食ってたよな。
あ、そうだ、バブの話もいいかな。
一度に丸1個使うのはもったいないって、ケチだからさお前。
硬くて手で割れないからって、カナヅチ持ち出してきて割ってたよな。」
やれやれ、人の記憶は操作出来ないから面倒だ。
「浴室」著:ジャン=フィリップ・トゥーサン

