
2月。東京は雪が多かった。
冬らしい冬だったな。
春を待ちわびるワタクシにささやかれたあま〜いおコトバ。
“コウヤサン ヘ オイデ”
ひぇぇ〜 冬の“高野山”でございますかぁぁぁ!?

『高野山』とは、およそ1200年前、空海によって開かれた
真言密教の修験道場であり、高野山真言宗の総本山でございます。
ただし「高野山」という山があるわけではございません。
和歌山県の北東部。標高約900mの8つの峰に囲まれた山上の平地。
東西約6km、南北約3kmに広がるこの一帯のことを指しております。
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関空から南海線、高野線と乗り継ぎ目指す高野山。
駅名の頭に「紀伊」とつくようになると、電車は
どんどん山をのぼってまいります。
その景色の変わり様は
本当に同じ路線かと目を疑うばかり。
車窓は海から臨海都市、こてこての大阪下町を通過し
山間の町へ。
最近何かと話題の「てつ(鉄道マニア)」の
方々には堪らんでしょうなぁ。
それにしても、こんな山を切り開き、遅れることもなく
運行出来るなんて
日本の電車ってつくづくすごい。
そんな電車をもってしても、高野山には登れない。
極楽橋駅からはケーブルカーに乗り換え。
あまりの斜度に三半規管をくらくらさせながら
深山行くこと数分。やっと高野山駅に到着。
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しかぁし!
本当の入り口はここにあらず。
高野山の正門は『大門』でございます。
今でこそケーブルカーや車でお山を登れますが
そんな交通手段がなかった時代
人々はもちろん“徒歩”でこの地を目指したのでございました。
つづら折り。昼なお暗い険しい山道。
ただ黙々と登ってゆくしかなかった祈りの道。
踏み出す一歩が平坦になった時、顔を上げて
真っ先に飛び込んでくるのが
威風堂々とそびえ立つ朱塗りの大門。
その感動は、ワタクシたちの思いも及ばぬものがあったでしょう。
“いよいよここからお大師様のお膝元に参るのだ”という高揚感は
疲れを吹き飛ばして余有るものではなかったでしょうか。
大門の傍らに立った時、幾多の人々が漏らした安堵と感動の吐息を
ワタクシは感じるのでございます。
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門前を横切る車道の向かいに目をやれば
崖下をはり付くように、信徒たちが歩いた高野古道のひとつ
「高野山町石道(ちょういしみち)」が
往時の面影のままに残っております。
麓の慈尊院から、1町(約109m)ごとに建てられた
卒塔婆型の「町石」と呼ばれる道標に
力をもらい ながら歩く急勾配の尾根道。
―高野山へ向かう。
その時から、すでに修行は始まっているのでございますね。
今でも、この道を辿ってお参りする方もおられるようでございます。
山歩きを支えた杖なのでしょう。
傍らの木陰には、たくさんの木枝が立てかけられておりました。
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弘仁7年(816)の創建以来、高野山は女人禁制。
結界が解かれたのは明治5年(1872)のこと。
それまでおよそ1000年もの間、女性たちは、例えこの大門まで辿り着いても
空海が定めた「結界(聖地と俗世を分ける境界線)」から中へ入ることは
許されませんでした。
それでも、信仰心厚い女性たちは高野山を目指し、結界の周囲を縁取るように巡り
結界外に設けられた7カ所のお堂に籠って、空海の御廟がある奥の院を遥拝して
きたのでございます。
空海が高野山を拓くにあたって真っ先に建立したのが修禅道場。
女人禁制とは、女性に厳しいということでなく
僧侶たちは、その分厳しい修行を重ねてきたという歴史の証でもあるのでしょう。
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ぽっかりと拓けた山の上は、その空間すべてが聖。
流れる時間は今も、修行の上にございます。
2月という季節柄か、参拝客も比較的少なく
町中はどこかゆったりとしております。
ちょうど「お大師様の日」と言われる月命日にあたったこの日は
開祖空海を偲び、お寺も町家も門に提灯をたてておりました。
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すこーんと晴れた冬晴れの清々しさは、天気からくるものだけでなく
1200年の間変わらない、この地での心の有り様なのかもしれません。
数多くの建造物や密教美術の至宝。
見るべきものはたくさんございますが、最も大切なのは「空気感」。
静かに感じることのような気が致します。
次回は、いよいよ「壇上伽藍」、そして空海の御廟「奥の院」を
感じたままに綴ってまいります。
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